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昨日は今日のストーリー

Beautiful things don't ask for attention.

菟道稚郎子/八の宮を尋ねて

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Fairy pita


3月最終日ですやん!!




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宇治上神社(うじがみじんじゃ)
御祭神は
右殿(第一殿)菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)
中殿(第二殿)応神天皇
左殿(第三殿)仁徳天皇

昨日、この3柱については書いたので
今回割愛
かなり、ギョッとする並びの御祭神


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国本の本殿
平安後期の建物で覆屋は桁行五間梁行三間流造檜皮葺。内殿三社は一間社流造檜皮葺。細部の様式から菟道稚郎子の右殿が一番古いと思われる。

やっぱりかなりすんごいので、
抑えるのに父ちゃん召喚し、まだ甘いと
さらに弟を差し出したんか?そうなんか?
とか、妄想しながら拝観


現存する神社建築としては日本最古で
明治43年に解体修理が行われている


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拝殿も当然のように国宝だったりするが
こちらは鎌倉時代の寝殿造
そう、寝殿造なだけあって、ぱっと見
貴族住宅、ものすごく妄想の足しになる感じ

特にこの宇治上神社のあたりは八の宮の邸宅(薫が恋した大君の住んでいた)がある設定。ていうか菟道稚郎子が八の宮のモデルとも言われているので、まさにソコ。
寝殿造というのもあって、ここで薫が垣間見したかも!と
悶々と悶えて、あちこちと写真を撮ったんだが、、、
この国宝の拝殿の前の、右側の清めの砂の真前で
ずーーーーっっっとスマホいじってる
60’sぐらいの男性がいて、
良い写真すべてにその男性が写っていて、
忌々しいったらありゃしない。
ほかにもほとんど人がいなかったので、
その60’s男性が退くのを待ってたんだが、
結局、イライラが増すだけでメンタルに悪いので
諦めておっさんの写真を量産して終わりました。
スマホをいじるなとは言わんが、
観光地の景色の良い場所とか、宝物の前
素晴らしい建物とか、美術館博物館の作品の前とかで
ずーーっとスマホいじってるとか、
ずーーーっと立ち話してる(作品は見ていない)とか
マナーが悪すぎる(愚痴)やめろ!

興味がないなら来んでよろしい。

観光に来たなら
お金だけ使って、
近所に配る土産をごっそり買って
さっさと帰ってほしい。
スマホは映えない場所でいじってほしい。
エスカレーターあがってすぐとか、
エレベーターの出口とか
電車のドア出てすぐとか
階段上がったすぐとかで、
立ち止まらんといてほしい
ましてや立ち止まって喋り出さんといてほしい

と、こんかい久々に人の多い場所に出没して
痛切に感じた(辟易)




ああ、俗世の垢が体につもっていく、、

深呼吸して、

切り替えて、

さわらびの道を歩く

ところどころに、宇治十帖の現代語訳が書かれた立札があり
なんとも、心穏やかに
心穏やかでない宇治十帖を暗唱する(あはは)



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総角(あげまき)の古跡

あげまきに長き契りを結びこめ
同じ所に縒りも会はなむ

光源氏の末息子・薫
その出自がややこしいんだが、母女三宮がアレなのもあって
美貌と妙なる香り(体臭が芳香という、羨ましいスキル)を持つのに

隠キャ

ばりくそに隠キャ。そして、コミュ症。
なんか、これで無双したら、
今のラノベのひとつの様式ではある。
この点でも、実は宇治十帖が現代サブカルに与える影響を感じる。

話はズレたが、アゲマキ
八の宮の一周忌かなんかに、
いきなり大君(八の宮の上の娘)をタイミング悪く口説いて、
チーンってなる場面な
大君は大君で、まあ、めんどくさい人なんだけど。

とはいえ、当時の価値観でもある
えらい男性の妻は子供を産むスキルが必須
(楽しむ恋愛は別)
となると、大君としては体が弱くて
トライする気もないぐらい子が望めないので
身分と教養の高さ故に、辞退せんとあかんとか思ってるんよね。
正妻に座って、いい側室探せばええと思わんでもないが、
それも実は薫を愛している故に、知らん女は嫌、
となると、妹に、、という流れなんやろねぇ。
紫ちゃん、こういう事例を知ってるか、
もしくは彼女自身の実体験か、
はたまた、才能がもたらした想像力(これだと思いたい)




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早蕨
そして、大君がなくなった後
中君は匂宮の妻となっているが
薫と大君の思い出を語らったりしているのを
匂宮が、浮気では?と疑い始めるという
ベタな展開

阿闍梨のもとより、
「年改まりては、何ごとかおはしますらむ。御祈りは、たゆみなく仕うまつりはべり。今は、一所の御ことをなむ、安からず念じきこえさする」
など聞こえて、蕨、つくづくし、をかしき籠に入れて、「これは、童べの供養じてはべる初穂なり」とて、たてまつれり。手は、いと悪しうて、歌は、わざとがましくひき放ちてぞ書きたる。
「君にとてあまたの春を摘みしかば
常を忘れぬ初蕨なり
御前に詠み申さしめたまへ」
とあり。
大事と思ひまはして詠み出だしつらむ、と思せば、歌の心ばへもいとあはれにて、なほざりに、さしも思さぬなめりと見ゆる言の葉を、めでたく好ましげに書き尽くしたまへる人の御文よりは、こよなく目とまりて、涙もこぼるれば、返り事、書かせたまふ。
「この春は誰れにか見せむ亡き人の
かたみに摘める峰の早蕨」
使に禄取らせさせたまふ。

ちょうど、そこかしこに土筆が
ボーボーに生えていて
昔は食べ放題だったんだろうかと、
思ったりして(私は食べへんけど)

走行してるうちに

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宇治神社
御祭神は菟道稚郎子、一柱
もともと、宇治上神社とセットというか同じ社で、菟道稚郎子をさらに厳重にお祀りしている離宮という感じ。もともと、菟道稚郎子の離宮跡であるというのも有力説。明治に組織上の社会的な理由で独立したようだ。


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超残念ながら宇治上神社のうさぎみくじは在庫なし
さすが卯年やねぇ、
授与品の売れ行き人気がパないらしい。

偶然ではあるが、卯年にウサギにちなんだ土地での
ミッション、、というのも、なんか感じるもんがある。

ということで、
源氏物語ツアーダイジェストログも終盤です
宇治をあとにして
京都市内に戻ります。


ヤイロチョウ
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信仰と官能の宇治十帖

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Greater scaup
宇治川でいちばんよく見た水禽
めちゃかわいい!





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宇治川
なんといっても浮舟が入水するシーンが
脳内にバーンと出てくる
結構早い流れ!!
この流れに十二単着用で入ったら、
無理やな、沈む未来しか見えん。


現在の宇治橋は1996年製長さ155.4m、幅25m
昨日も書いたが宇治橋は何度も流されている。最初に架橋されたのが646年(伝)、「山崎橋」「瀬田の唐橋」「宇治橋」で日本三古橋。この3橋が日本で一番古い橋と言われている。
そう、全部同じ川、s.l.淀川。瀬田の唐橋についてはまた後日言及するが、琵琶湖から出てすぐのあたりの橋。山崎橋は宇治川の石清水八幡宮のほとり、八幡市橋本から大山崎町にかかっていた。度々流され、最後に復元されたのは豊臣政権時代で、その頃にまた流され、以来再建されていない。




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宇治橋西詰には紫式部の石像と
石碑がいくつか見える。

夢浮橋古跡、とある
宇治十帖は古来から、
実は二次創作である、という説があり続けている
たしかに、源氏メインパートの光源氏の生涯の正編と
薫と匂宮がメインの続編では、かなり趣が違ったり、
スタイルが違ったりするというのもあって、
なんとも正解が今のところ出ていない。
しかし、現代作家でも、なんかの契機でスタイルが
変わることもあるし、原本が失われて
全て写本であるゆえに、だれもなんとも言えん。
ともかく、諸説あるが、
正編の桐壺から須磨12帖は未婚時代に構想はできていて、
夫と死別後に桐壺から須磨までを完成。
さらに明石から藤裏葉21帖、若菜上から幻までの8帖
と、正編すべて書き上げてパブリッシュし、
内輪以外にもバズり始めたところで道長に引き抜かれ、
超VIPたちにも表立って読まれるようになり、
ファンも爆増する。
で、
宮仕え中に続編を書いたと思われる(紫式部が作者として)
なんちゅうても、
すさまじきものは宮仕え(by清少納言)ですよって、
宮仕えで、紫式部も”宮”の色々をリアルに実感して、
人生観変わってしもて、
でてきたんが、宇治十帖なんかいな、、と
私的には思うわけですな。

紫式部日記に1010年には、スランプというか、
もう物語は書けない(燃え尽きたか?)
というような叙述があるので、
燃え尽き詐欺でなかったら、
本当にこの時期完結と言うことになるかと思う。

で、
浮舟

多分、平安女性のファンタジーだったんだと思う。
身分が低い女性が、超絶美形で身分の激烈に高い、天が惜しげもなく全てを与えたような男性2人に愛され、取り合いになるっちゅうね、、。古今東西恋愛脳女子の典型的な憧れの1スタイルなんではなかろうか。現在の創作でもベタといえば、ベタだが飽きられることなく使われる設定でもある。

そして、
私のために、ケンカされるぐらいなら
私がいなくなればいいと、自分を犠牲にする
というのもまた、ベタなファンタジー


浮舟も、宇治川に身投げする直前に
めんどくさいほど、自殺シグナルをはっしまくる。

寺へ人遣りたるほど、返り事書く。
言はまほしきこと多かれど、つつましくて、ただ、
「後にまた あひ見むことを 思はなむ
この世の夢に 心惑はで」
誦経の鐘の風につけて聞こえ来るを、つくづくと聞き臥したまふ。
「鐘の音の 絶ゆる響きに 音を添へて
わが世尽きぬと 君に伝へよ」


ていうか、、
紫式部が作り出した、恋愛における
超絶ベタ設定というのは
現代でも脈々と使われ続け、現存女性たちの
憧れ設定でありつづけるというのがすごいわな。

紫式部がすごいのか、
恋愛脳に進化がないだけなのか、
存外、ミトコンドリアかなんかに
支配されてるんかもしれないけども、

やっぱり、すごいって
思うのだった。


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朝霧橋
宇治橋の南になる結構あたらしい橋で
平等院から宇治神社に行くのに便利。

朝霧橋の東詰には匂宮にだまくらかされて
小舟につれこまれる浮舟の像がある。

この像、、子供に説明をせがまれたら
私はとても困る(笑)

ていうか、なぜこの場面?(エロすぎるのに)

光源氏が夕顔を廃院に連れていくシーンと
匂宮が宇治で浮舟を連れ出すシーン
この2つは源氏物語の中でも
奥ゆかしさかけらもなくモロ工口(主観)
そしてどちらも先に死があることがまたエグエロい。
様式美すら感じる。

閑話休題


「たちばなの 小島は 色もかはらじを 

この浮舟ぞ ゆくへも知られぬ」


ともかく、薫に対して妙にコンペディティブな匂宮
薫が囲ってる”宇治の女”を寝取る気満々で宇治の山荘へやってきて、
浮舟のベッドルームに薫のふりをして忍び込み、合体。
その後、再訪した匂宮は
薫の山荘(多分まだ夕霧の所有という設定)から
浮舟を連れ出し、小舟で対岸のヤサにしけこみ、
2日間ベットシーンのみ
ただれた時間をすごすのだった、、。

元気やな、、

ハーレクイン系キャラ文庫ですな。
この後、薫らにバレて浮舟自殺未遂、という流れになる。

なんせ、正腹の姉の夫(しかも帝皇子)を寝とった状態
匂宮が光君の悪いところを見習ってやんちゃなのと、
薫がめんどくさいのと
浮舟の身分が低いのが
主たる原因ではあるんだが、
それにしてもなぁ、、

匂宮(顔が神)にパッショネイトに迫られて、
流されない若い娘がおるだろうか?(いや、無理絶対)

ともかく、取り沙汰される
身分の低さに伴う拒否権のなさ。
なかなか当時の社会問題も描いていると言えるんではなかろうか。



さて

ここで、ややこしくなってきた人用に、
整理しておくと

浮舟は宇治八の宮の外腹の娘。八の宮に認知されていない。大君中君とDNA姉妹だが、身分が低いちゅうことである

宇治八の宮は桐壺帝8番目皇子、光源氏、朱雀帝たちとは異母弟

宇治の大君(薫が惚れている、病弱)
中の君(匂宮の妻)
この2人姉妹は八の宮正妻の子。
浮舟の母はこの正妻の姪で正妻の女房であった中将の君。
源氏物語では”中将の君”はぎょうさん出てくるので巻とコンテキストを理解しぃひんとあかん。

は、書類的には光源氏と女三宮の息子
   DNA的には柏木と女三宮の息子

女三宮は朱雀帝(桐壺帝第一皇子、源氏の異母兄)の娘

朱雀帝は源氏には、葵上(もともと朱雀帝妃予定)と
朧月夜の君(朱雀帝に入内予定)
どっちもかっさらわれているので、かなりつらい帝。

柏木は夕霧(光源氏の息子)の友人で笛の名手、頭中将長男

匂宮は匂兵部卿宮、今上帝(朱雀帝の第一皇子で冷泉帝の東宮)と明石の女御(光源氏と明石の君の娘、育ての母は紫の上)の第三皇子、三の宮。女一宮とともに、紫の上に養育された。



まあ、そんな

いささか正編にくらべて
陰が深いというか、
デカダンのカホリただようような
憂鬱な美しさの話を思い出しながら、

ものすごく腹がへってきた私。

そうだ、カレーを食べよう(笑)

ベタな恋愛物語なので、
ベタな観光地でベタな食べ物を食べたい
なんか、こってりと、、な(爆)

ちゅうことで、
お京阪の宇治駅隣、
お茶と宇治の町歴史公園へ


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茶畑
やっぱり宇治は茶畑を一目みないと
そして、この茶畑のあるあたり、

宇治川太閤堤跡(一部分)なんである。
豊臣秀吉によって築造された、遺構。
この北側には秀吉が築堤した土木遺構をそのまま
復元というか再現したエリアもある。


どうしてもここのカレーが食いたかった(笑)



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茶づな
太公堤カレー

あははは、良い!!!

土石流のカレーで
堤をぶっこわして食うていくっちゅうのが面白い。
野菜はディープフライしてあって、
揚げたて熱々だった。


そして、実はカレーを食べる前に

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先にデザートを持ってきてもらうという暴挙に
(バカ受けした)

まあ、アパタイザーだと思って欲しい(あはは)

後味がカレーであってほしかった(なんやそれ)


そして、恐れ多いことに
テーブルからは菟道稚郎子尊墓が見え、
菟道稚郎子に見守られながら、
太閤カレーを食うというような、
不思議な状況に。

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菟道稚郎子尊(うじのわきいらつこのみこと) 丸山古墳
応神天皇の皇子で、仁徳天皇の異母弟
あちらこちらの史書に宇治天皇と出てきたりもするので、
即位してる説もある。
現在の宇治に「菟道宮」(うじのみや)を営んだとあり、
これが宇治の名前になった、と言う説も。
そして、宇治にウサギが多いのも
菟道(うじ)だから!とかも言われている。
これまた、仁徳天皇に謀殺されたという説があって、
かなりの怨霊ぶり

贅沢通り越して、罰当たりそうで怖い。

そして、
菟道稚郎子は八の宮のモデルとも言われている。

ということで、
菟道の神社にもお参りしてきます。



スズガモ
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薫を追う!鳳凰舞う院へ

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Japanese waxwing


宇治にやってきました。
平等院に到着するとなり
鳳凰が目に入る前に、
まず連雀にお出迎えいただく、
いとをかし





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平等院鳳凰堂
2014年に平成修理が落成
平安時代の復元色になったのは約60年ぶり。
最近宇治にくることがなかったので、
私も渋い色しか見たことがなかったと、今更気づく。
平安カラーをみるのは初めて!
感動的な青空に映える極楽浄土感ったら、えぐい。
ていうか、これが平安時代に、、
藤原氏の権力と財力よ。


内部の雲中供養菩薩像を愛でるため
内部拝観もきっちりおさえた(必須事項)

※団体客が集まる時期は、あっという間に定員満杯になるので
興味があるならば、朝一で予約するのが確実で時短になる。




いやはや、確かに新しい感はあるが、
これが平安貴族たちが見ていたすがたかと、、
極楽もかくや、、という風情ですな。

平等院は、光源氏のモデルの最有力と言われている源融の山荘・宇治院であった場所。まあ、基本この人がモデルで、プラス盛ってるんだろう。
源融は嵯峨天皇(809-823)第十二皇子で臣籍降下で源氏の姓を賜る。嵯峨天皇の子は男女合わせて約50人、ぶっちゃけすべて皇族でやっていくのは無理で、多くの子らが源氏姓を与えられ臣籍降下した。この人たちが所謂嵯峨源氏(以前、源平あたりのときに書いたような気がする)。そして、臣籍降下したとはいえ、皇族なのでえぐい簡単に出世した人々でもある。其中でも、容姿端麗才能豊かな光り輝く融の君は、賀茂川の河原院(現在、五条大橋の近くに石碑があるのみ)と呼ばれた豪邸に住み、河原左大臣という名前で百人一首にも選出されている

陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに
乱れそめにし われならなくに

思い出してなかった人も、これ読んで
「あ〜〜」と言うてることと思う。
この作者が源融
でまあ、このあたりに、
その融が造った山荘(今風にいうと別荘とか別宅とかそんなん)が、陽成天皇やら宇多天皇に渡って、朱雀天皇の離宮となり、紫式部のパトロンというか、紫式部を宮中にリクルートした当時の政治モンスター藤原道長の別荘”宇治殿”となる。

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藤がねぇ、、絡むんですよぉ

道長の没後に息子の頼通が平等院を開基、別荘から寺に。
開山は当時、園城寺(三井寺)の長吏を勤めた後、京都岡崎の平等院の住職だった明尊(小野道風の孫)で、さすが当時の藤原やりたい放題なので、宇治のブランニュー寺院に”平等院”という名前が欲しくて、ごそっと名前ごともってく。で、岡崎の平等院は円満院と改名し
(円満て草、色々な条件でかなり円満やったんかもしれんけどな。なんというか、今でも命名権は買えるけどねぇ、そゆことだろう)、
現在は三井寺のそばに移っている。ちなみに、当時の平等院は三井寺の末寺という体裁になっている。なんか、書類上、まじで不備ないというか、恐ろしい平安政治で足の引っ張られる隙を作らないのが大切だったんだろうなと、思うわけで。ていうか、この隙のなさが藤が繁茂した要因ともいえるのねぇ。しかしまあ、体裁は整ってるとはいえ、ゴリッゴリやね。

1053年に鳳凰堂竣工
残念ながら、この姿は紫式部はご覧になってないちゅうことになる。


源氏物語の宇治十帖では、夕霧が光源氏の遺産で所有している宇治の山荘になっている。
初瀬詣で、長谷寺から帰ってくる途中の匂宮を薫が迎えるのがここ。DNA的光源氏の孫と、デプロマ的光源氏の息子(DNA的には繋がってないこともないが遠い)の、大変ややこしいドラマが非常にDOOL(Days of our Lives)なのだった。
ていうか、この頃の観音信仰もかなりバズってたみたいやねぇ。


兎にも角にも
宇治なのですよ


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院内にはヤドリギがたくさんあって、
そんなに実ぃはのこってなかったが、
お尻からねっちょりと筋ひいたヒレンジャクがみられたので、
まだまだ食べるところがあるんだろう


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一万円札の鳳凰
この鳳凰はレプリカで、
本物(国宝)は境内の宝物殿凰翔館で観られる。

去年(2022)の5月に、新潟県立美術館で
平等院鳳凰堂と浄土院展に行って、
どうしても、現地で拝観したいなぁ、、と
書いてるが、
結構早めに実現してとても嬉しかった。
来ガタしたのが雲中供養菩薩像の北1号、南14号だったんだが、
それだけでもありがたいと感じたのに、
京で滞在していると、国宝多すぎてデフォなのが怖い。
ていうか、京都スケがすべて平日で
いっちゃんでたこやき食べられなかったのが残念。

でまあ、

十円玉のオモテの平等院鳳凰堂も久しぶりに眺めるか、と
マイ小銭入れを見たらば


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なんか、ギザジュウ入ってた!!!

おもろ!!(表裏合成)

昭和28年製よ。
吾よりずっと年上の十円様。
なんか、ドラマティックな気がする。

いとをかし


ちょっと長くなってきたので、
ここらへんで割愛して、
宇治橋へ

宇治川に行く前に
まず、こちらを参拝


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橋姫神社
明治の大水で流される以前は宇治橋の西のたもとに、さらに昔には宇治橋「三の間」(橋の中間点)に祀られていたそうだ。かなり水の守りの要。
宇治川に参る際には、まずお参りしておきたかった。


宇治十帖の橋姫の山場というと
やはり薫が自分の出生の秘密を知る場面

目の前に この世を背く 君よりも
よそに別るる 魂ぞ悲しき

命あらば それとも見まし 人知れぬ
岩根にとめし 松の生ひ末

DNA父の柏木(頭中将の長男)の文がまた涙を誘う

ていうか、実の父母の恋文を読むて、、
ちょっと、複雑やねぇ(私なら読拒)
しかも、父と母の温度差!


「かかること、世にまたあらむや」と、心一つにいとどもの思はしさ添ひて、内裏へ参らむと思しつるも、出で立たれず。宮の御前に参りたまへれば、いと何心もなく、若やかなるさましたまひて、経読みたまふを、恥ぢらひて、もて隠したまへり。「何かは、知りにけりとも、知られたてまつらむ」など、心に籠めて、よろづに思ひゐたまへり。

そして、知った後に
母に会うシーンがこれまた壮絶。
おさなごのような母を見る薫
(実はロリババアという属性は紫式部が確立していた!)
そりゃまあ、八の宮に傾倒もするわな。

げにめんどくさいのは男女の仲

ともかく、紫ちゃん
こんな物語をよくぞ描けたもんだと
平安では恋バナあるあるだったのかもしれないが
それを加味しても、紫式部の筆力のすさまじさよ。



ともかく、橋姫神社参拝
さあ、これで準備万端
宇治川へ向かいます(すぐそば)


平等院のヒレンジャク
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平安時代、寺といえば

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三井寺境内にて
まったく振り返ってくれなかった男


三井寺、正式には長等山園城寺
7世紀に大友氏の氏寺として草創
与多王(大友皇子/弘文天皇の皇子)が開祖。
天智天皇・天武天皇・持統天皇が
こちらの霊泉で産湯をつかったので
御井寺(みいでら)→三井寺(みいでら)と呼ばれる。

ちなみに、和歌山にも紀三井寺という(創建770年紀三井山護国院)お寺さんがありますが、大津の三井寺と関係はない。山中に三井の霊泉(吉祥水・清浄水・楊柳水)を有するのが通称の由来。西国三十三所では2番(三井寺は14番)、西国三十三所は和歌山スタート(1那智山2紀三井寺3粉河)




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三井寺

平安時代の文学文献に、「寺」と出てくると
この三井寺のこと
もちろん修飾語や前後のコンテキストも考えんとあかんが、

寺=三井寺

ガタでいおぼや(魚)というと、鮭を指す、みたいなやつやね。

こちら、歴史のみならず
平安時代の文学を読む上でも
かならず訪れたい聖地である。

紫式部関係でいうと、母方の伯父康延が三井寺の僧侶で
宮中の仏事や天皇の看病に従事する内供奉十禅師だったのと、
紫式部の異母兄弟定暹が三井寺の阿闍梨をつとめていた。
一条天皇の大葬に御前僧として加わった高名阿闍梨。

そんなんもあってか、
父為時が出家したのがこの三井寺で
出家後は三井寺ですごしたようだ、
私的イメージだが、僧侶としての第二のキャリア、
というのではなく
三井寺で隠居というか、
昔(平安)お寺さんてVIPの老後施設的な感じあるというか
現役を退いたら、静かな寺院で神仏に祈る生活をする、
というのが憧れ、という叙述もよく出てくるし。

ともかく、まあ、
紫式部に限らず貴族全員にかなりゆかりのあるお寺ではある。


ともかく、
京都や奈良の世界的有名寺院たちと比肩する。

THE寺

もちろん
国宝が多い、

そして、秘仏が多いというイメージが強い
黄不動像(絹本著色不動明王像)・中尊大師・御骨大師・木造新羅明神坐像(全部国宝)や木造黄不動立像・木造如意輪観音坐像・木造護法善神立像(重文)は、数年に1回ぐらい大イベントとかのときに開帳されたりもするが、秘仏。

金堂本尊の弥勒菩薩(如来かもしらんが)像は秘仏中の秘仏

全く誰もみたことがないらしい。なので国宝になりようがなくて、厨子が国宝になっている。すんごいねぇ、見えてるガワが国宝て、、。気になりすぎてたまらんやつ。

ともかく、ほんとに国宝だらけなので、
重要文化財とか、モブ状態。その他いろんな分野の何もかも重要文化財って感じ。
見どころ多すぎるので(普段公開していないもの多いが)
浸ると時間がかかりすぎるので、
スケ管は要注意である。


そりゃもう、なんでもない小径ひとつとっても

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ほんまに風情あり
現在、桜の時期は
ちょっとあり得ない美しさ、、
とはいえ、人も多いのでトレードオフが必要


私個人的な興奮ポイントも多い

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堂前灯籠
説明とともに立て札があるので、簡単に見つかる。

「天智天皇が大化改新で蘇我氏一族を誅し、その罪障消滅のため天皇が自らの左薬指(無名指)を切り、この灯籠の台座下におさめられたを傳えられている。この灯籠は別名を園城寺金堂無名指灯籠と呼ばれている。」


こ、、この灯籠の台座の下に
天智天皇の指がっ

なんとなく、ものすんごく
昔読んだ小説(天智天皇が主人公だったか、重要人物だったかの)を思い出した。
あれって、なんてタイトルだったっけ???
再読したい。


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三井寺の門たたかばやけふの月

近江を愛した芭蕉翁、
そりゃもうあちこちで詠んでおりまして
碑もどっさりですが、
やはり、三井寺ではとってもささる句が多い。

長くなるのでここらで割愛

もちろん
授与品も見逃さない

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近江六の札所限定
浄土の鳥土鈴!!三井寺、石山寺で授与!
めちゃ良い企画
近所で住んでたら絶対コンプしたい(笑)

浄土の鳥というのは阿弥陀経に出てくる、白鵠・孔雀・鸚鵡・舎利・迦陵頻伽・共命の6鳥種で、お寺の壁やら内陣やらいろんなところの壁画や彫刻などで見ることも多い。愛鳥家なら、神社で目に付くスカルプチャーがきになるだろう。それら浄土の鳥の作品が、どの実在鳥種をモデルにしているか、というのが同定できると、さらに面白いこと請け合い。

左側のは昨日ログに書いた13番石山寺の孔雀(くじゃく)
これはまあ実際に存在する鳥種で、認識力を持っている。

14番三井寺は鸚鵡(おうむ)
これもまあ現存種なのでイメージしやすい、賢さを表す

ついでなので残りの浄土の鳥も書いておくと、
12番正法寺(岩間寺)では白雁(びゃっこう)
白鵠・白鳥・天鵞とも言われる水禽、ハクガンだったりコウノトリだったり、渉禽っぽい姿の彫刻もある、清らかさを表す

30番宝厳寺(竹生島)舎利(しゃり)
鶖鷺・百舌鳥・九官鳥だったりもする。理解力
なんとなく、舎利は釈迦様のインタープリターとか秘書的な仕事をしてたのではないかと、勝手に想像してしまっている(個人的イメージ)。

31番長命寺の迦陵頻伽(かりょうびんが):
好声・妙声・美音・妙音鳥、芸術力

32番観音正寺の共命(ぐみょう)之鳥
人面禽形のキマイラか双頭の鳥として描写される。ともに生きるたいせつさを説く。


書籍やグッズなども多数
物欲爆発する授与所です(ええんかっ)
御詠歌「いでいるや波間の月を三井寺の 鐘のひびきにあくる湖 」手拭いもゲットしました!


そして三井寺といえば、

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大津絵美術館がある!

大津絵というと
以前住んでいた市の美術館で何点か所蔵していて
よく見に行くうちに大津絵大ファンとなり。
大津にきたら寄りたいと常々思っていた。
ちゅうことで、
実は無理に組み込みました(笑)。
本当はこの枠に融神社を入れてたんだが(あはは)
まあ、結局ちゃんと組み立ててみれば
三井寺で大正解と言えたと思う(自画自賛w)

三井寺のすぐそばに大津歴史博物館があり
そちらにも大津絵について、勉強できます。
大津絵グッズが欲しいなら、
三井寺の大津絵美術館、大津歴史博物館、
大津駅観光案内所OTSURY
比叡山ドライブウェイの各ショップなど
大津の市内では、ベタな土産は見つけにくいので
寺やミュージアムショップで
見たときにゲットしておくことをおすすめします。

これから大津も外からの集客が増えれば
また、色々と変わってはくるとおもうんですが、、


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ちょっと息をつかせていただく
静かで、すばらしく天気の良い日だったのもあり
たまらん妄想日和でした。

かなり良い鳥みたわ



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石山寺で大作家のカンヅメを見る

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Oriental turtle dove
右にちらっとみえているのが経蔵
この右の方に立派な紫式部の供養塔と芭蕉の句碑がある。


さて、京都のお隣
滋賀県に移動してきました。

源氏物語がどこで生まれたか、
というのは、昔から色々いわれてるんですが
まあ、一番最初の構想というのは
もう、誰もわからないというか、
作家にもよるでしょうが、ピンポイントで
1つの場所!と言い切れるケースは超稀なのではないか?
と、思います。
ましてや、源氏物語は長編ドラマ。
自宅や局やその他、出先などで執筆、
ネタ、となると、
ほんとにいろんな場所、
いろんなシチュエーションで、A-HA!ってなったことと思います。
なんせ、センスめちゃいい作家ですし。

とはいえ、
世に、うちこそは源氏物語の構想を得て書き始めた場所じゃ!と
名乗りを上げているお寺さんがありまして

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大本山石山寺です
平安女流文学作家をインスパイアしまくったお寺。

寺は壺坂(つぼさか)。笠置(かさぎ)。法輪(ほうりん)。霊山は、釈迦仏(しゃかぶつ)の御すみかなるが、あはれなるなり。石山。粉河(こがわ)。志賀。

by清少納言

寺は壺阪(奈良)、笠置寺(京都府、ほぼ奈良)、法輪寺(嵐山のほう)がマイベストスリー。霊山は、釈迦仏の御住所であるのが尊すぎてしんどい!あとは、石山寺(大津)、粉河寺(和歌山)、志賀寺(今は失われている、崇福寺跡として滋賀里町にある金仙滝の付近に遺跡がのこる)が、好き。
と、石山寺が枕草子にランクインされている。
蛇足だが、粉河寺はまさにうちの氏の地元で非常に誇らしい。

こういうランキング系ログって、読んでても楽しいわな。
もし、清少納言が現代におったら、
「寺院はやっぱりモンサンミッシェル、スルタンアフメット・ジャーミィ、ウエストミンスターどすなぁ。神様がおる場所はどこでも素敵やおへん?ミラノドゥオーモ、タージマハル、ヴォロネツモネストリーもよろしおすぇ。」
とか、言うたりして(笑)


藤原道綱母の『蜻蛉日記』の中で
十七日、雨のどやかにふるに、方ふたがりたりと思ふこともあり、世の中あはれに心ぼそくおぼゆるほどに、石山に一昨年まうでたりしに、心ぼそかりし夜な夜な陀羅尼いとたふとうよみつつ礼堂にをがむ法師ありき、問ひしかば、
「去年(こぞ)から山ごもりして侍るなり。ごくだちなり」

と言及しているし、
菅原孝標女(『更級日記』)も石山寺に参篭(ガチ源氏ファン聖地巡りw)。

『和泉式部日記』となると
かかるほどに八月にもなりぬれば、つれづれもなぐさめむとて、石山に詣でて七日ばかりもあらむとて、詣でぬ。宮、久しうもなりぬるかなとおぼして、御文つかはすに
童「一日まかりてさぶらひしかば、石山になむこのごろおはしますなる」と申さすれば、
「さは、今日は暮れぬ、つとめてまかれ」とて御文書かせたまひて、石山に行きたれば、仏の御前にはあらで、ふるさとのみ恋しくて、かかる歩きも引きかへたる身の有様と思ふに、いともの悲しうて、まめやかに仏を念じたてまつるほどに、高欄の下の方に人のけはひれば、あやしくて見下ろしたれば、この童なり。

さすが、寺やっちゅうのに
艶かしいぞ(あははは)



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本堂
とても静かで落ち着く
良い環境ですな(多分プラセボもある)
この、紫の寺社幕の内側


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これは、、
まさに作家のカンヅメ!!(館詰)
(原稿を書くのに、ホテルや旅館に軟禁して/されて、仕事するアレ)


源氏の間とあり、
紫式部の在りし日の姿を再現したものが展示されている。
説明には、紫式部がこの部屋に参篭し、八月十五夜の晩に前方の金勝山から昇る中秋の名月が下の湖面に映える美しい景色に打たれ、構想の趣くままに筆を採られたのが、有名な『源氏物語』であります。と、書かれている。

「須磨」「明石」の巻の発想を得たとされている。

ここで、全ての源氏物語のスタートだったかどうかはともかく、
須磨と明石あたりが、こちらで書かれたのは、多分そうなんだろうと思う。
だいたい、現代の長編売れっ子作家も、リゾートホテルで缶詰になって、執筆したりするので、、そんな感じをイメージしてしまうんですよねぇ。
なんにせよ、多分、ここで源氏物語のどこかのパートが書かれたはず!
興奮しますねぇ。


個人的には
薫が母の女三宮が病気になったので、石山寺で祈祷をうけていたそのとき、浮舟の失踪の連絡を受けたのを思い出す

大将殿は、入道の宮の悩みたまひければ、石山に籠もりたまひて、騷ぎたまふころなりけり。さて、いとどかしこをおぼつかなう思しけれど、はかばかしう、「さなむ」と言ふ人はなかりければ、かかるいみじきことにも、まづ御使のなきを、人目も心憂しと思ふに、御荘の人なむ参りて、「しかしか」と申させければ、あさましき心地したまひて、御使、そのまたの日、まだつとめて参りたり。

この本堂で薫が祈祷なさったのよ(たまらん)。

ちなみに、石山寺の前を流れる

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瀬田川
この川はs.l.(sensu lato)淀川で、
琵琶湖から始まり、
滋賀を流れる部分が瀬田川、
京都府にはいるあたりから宇治川となり
大阪府と京都府の境界付近で桂川と木津川と合流し
淀川と呼ばれる流域となる。
昔はまた他の川も合流したり分岐したりもしていたので
その都度呼称があるが、まあ割愛。

頭にいれておかんとあかんのは

瀬田川と宇治川が同じということ、
石山と宇治川、川でつながっていたので
京から一本道であった、ということだ。

瀬田川については、源氏物語から離れてから
もう一度言及したい。



そんなんとかもう、色々で、
あわわわ、と興奮しながらお参りし
境内も散策する


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多宝塔
建久5年(1194年)建立で建立記録(証拠)が残っている日本最古の多宝塔
ということは、多宝塔が古い、というよりは記録が最古、ということではある。
寺伝では源頼朝が、平治の乱の後に石山寺が兄の源義平を平清盛から匿ってくれたことへのお礼で寄進したと伝わっている。
紫式部が来たときにはなかったものではある。

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ちらほらと桜が咲き始めていて
たいへん風情があった



いやはや、、
ここはなんといっても、
外せない聖地ですな。




授与品


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爺さん!!(笑)
おみくじです。
白い和犬をみると、
どうしても連れて帰りたい。

『紫式部と石山寺』という紫式部に関係する石山寺の宝物の資料集(ありがたい求めやすい初穂料)や読み物もあるので、ヲタならば入手することをおすすめする。私ももちろん、ごそっと授かってきました(笑)

本堂内陣もすばらしい仏像が、えぐい間近で拝観することができるので、超おすすめ。(撮影不可)
春秋には、源氏物語にちななんだ展示も行っている。

大津、まだ続きます。


経蔵のキジバト 
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上賀茂神社で備えの重要性を学ぶ

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Japanese wagtail

境内囀りまくり

京都最古の神社、
賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)です。
奈良時代にはすでに大勢力だった。

平安時代、祭といえば、賀茂祭(葵祭)のことです。
石清水祭、春日祭とで三勅祭(超重要神事)

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一の鳥居をくぐり、二の鳥居を臨む


”いづかたにも、若き者ども酔ひ過ぎ、立ち騒ぎたるほどのことは、えしたためあへず。おとなおとなしき御前の人びとは、「かくな」など言へど、えとどめあへず。斎宮の御母御息所、 もの思し乱るる慰めにもやと、 忍びて出でたまへるなりけり。つれなしつくれど、おのづから見知りぬ。”
(葵祭 六条御息所が身バレするところ)

いやもう、源氏物語の中でもトップ3にはいる
ショッキング場面、私的には1位かも。
すんごいフラグが立つ場面です。
「葵」の巻の車争い、これが賀茂祭で、禊の儀式に同行するひかるの君の姿を一目見ようと、わんさかと女性が集まったところに、正妻の葵上と六条御息所の御所車が喧嘩する場面。風流人で気位の高いの六条御息所には、ちょっと言い表せないぐらいのストレス。そりゃまあ、エクトプラズムもダダ漏れしてローリングソバットするわ!。だいたい、最初は御息所がいいところに車を立てていたのに、そこに葵上、、左大臣家の権力ぶりぶりの家臣団(しかも祭りでアルコホル振る舞われメンタルからして暴走ぎみ)が割り込んで暴力沙汰に、耳目を集めてしまう。まあ、平安の貴族では通う相手が多いことはあることといえど、夫の浮気相手でしかも、母の兄(桐壺帝)の東宮(朱雀帝が東宮になる前の東宮)の妃という、捨ておけぬぐらいの身分の高さと頭の良さに容姿端麗、夫光への拗れた恋心をもつ正妻の心も、そりゃもうめんどくさいことになっていると想像するのは簡単だわ。葵上陣営からすると、かなり上の世代の人、ほぼ母世代とはいえ、、。光はそっちのほうにたくさん通ってるというのも分かってるし、フリースタイルの後宮みたいなもんなんやから、どの姫(女性)が何回同衾したか、というのはそのまま点数になったはず。そりゃまあ、アレやわな、捨て置けない対抗心もえぐいやろかい。


この源氏物語の賀茂祭のシークエンスは、光り輝く源氏の君の光と、光がつくった陰というか闇の部分の対比が素晴らしい。もう、脳内ビジュアル化が止まらないところ。

現在も多分平安時代に紫式部がご覧になった
お祭りとほぼ同じ様子をみることができる、
というのも、非常に魅力。
下鴨さんのほうの授与所には、
直近の葵祭の写真小冊子が発行されている。
詳しい図解説明や、間近での様子がみられるので
おすすめの授与品
流鏑馬神事やうまくらべなど
競馬のはじまりとされる祭事も行われる
騎手は賀茂家の者がつとめなければならないそうだ。


ニノ鳥居をくぐると

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細殿(ほそどの、拝殿)
盛られた一対の「立砂」(たてずな)が目を奪う。
こちらは、天皇、斎王や上皇の参拝の際の著到殿(ちゃくとうでん・まず入御して装束等を整える御殿)
立砂は賀茂別雷神が降臨したといわれる「神山」(こうやま)をかたどり、神を招く憑代(よりしろ)の役割を果たしているそうだ。2つあるのは、権殿のように左が予備なんだろうか??
立砂の頂点には神が降臨する際の目印として、常緑樹の松葉が立てられている。

ちなみに、玄関とかによく見る盛り塩とか清めの砂
円錐で左右に盛ってるの、みますよね。
それの起源がこちらの立砂なんだそうだ。
となると、魔除というよりは
神様のおり場になるので、神様が来るから
わるいもんが近寄れない、というシステムちゅう理解やね。
ホウ酸団子的に砂だの塩だのに最初から
除悪効果を練り込んでるっちゅうもんではない。
が、プラセボ効果は期待できるだろう。
何の話や

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楼門を入ると、授与所があり
こちらで国宝の本殿と権殿の特別参拝の受付ができる。
まず、中門の隣室にて御由緒を聞き、その後間近で参拝することができる。

御神体は神山(こうやま)
第42回式年遷宮は令和18年
現在では伊勢のように全部まっさらにするのではなく、
修理をして、遷宮としている。
伊勢よりは、呪術的にフレキシブルっぽい。
言い換えれば、伊勢より怨霊度がまし?
(伊勢の怖さがわかろうもん)
とはいえ、見れば見るほど怨霊対策がガッチガチで
なにがお祀りされているのか、、
もう、興奮しすぎてウワーってなる。

本殿と権殿でお参りさせてもらい(撮影禁止)
実際に目の前で拝見し、
色々とお話を伺ってきました。
権殿をいつも置いて、
いつ何時、なんかあっても、
御霊を閉じ込めておける、という状態にしている。
なんなら、在住県にあるヌーク発(稼働してない)よりも遥かに守りがちゃんとしている。
やっぱりな!と納得すること多し。
めちゃくそインタレスティングで
エキサイティングだった!!
ファンタビュラス




上賀茂神社(賀茂別雷神社)←インスタフォローしてほしい!との事(笑)




さて、個人的にはヤタガラス推しなので、
色々と授かってまいりました。
役得なり。
ものすんごくツボな授与品、多数です。

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ヤタガラスの土鈴
土鈴、めちゃ好きです。
結構嵩張るので、我慢する事多いですが
八咫烏は絶対要る!


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八咫烏おみくじ
みちびき守(八咫烏ぬい)
八咫烏と金鵄の道中安全ステッカー
(これは車もトランクにもバッチリ)
ちらっと右に写っているのは下鴨神社の八咫烏お守り

八咫烏推しとしては、
おみくじとステッカーがマストだと思います。


そして、
こちらも

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アートプロジェクト
KAMIZU かみづ

上賀茂神社限定デザインだそうです。
これ、おしゃれ!!
しかも、目立つ色なので
置き忘れ防止に良い(笑)
夜に歩いていて、事故防止、道中安全っ
まさに八咫烏的な実質ご利益ありそう(笑)


でまあ、
境内を出て

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葵屋やきもち総本舗
上賀茂の名物やきもちは数軒あるんですが
こちらが上賀茂神社の神事でも扱われている餅屋


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夜中にホテルで食べました。
激ウマ!!
夜中の餅はしみるわー

ぼた餅やおこはも人気だそうだ。



次は紫式部聖地では外せないっ
あの有名執筆地へ!


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下鴨神社で烏縄手をあるく

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IMG_0836.jpegLarge-billed crow
賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)境内

鴨の七不思議、という立て札が目に入った。
京都にはあちこちにいろんな七不思議あるねぇ
京都に限らずいっぱいあるけどねぇ。

下鴨神社の七不思議の一つ
烏の縄手「カラスのナワテ」、
「カラス」は下鴨神社にお祀りされている
御祭神・加茂建角身命、別名「ヤタカラス」
とよばれている。
「ナワテ」は細い(せまい)長い道で、
ヤタガラスの神様へお参りする細長い参道の意味。
古くは糺の森の木の間を分けて、
幾筋もの細い参道があったらしい。
近年、そういった参道が復元されている。

ってなことが書かれた立て札があるが、
どこが不思議なんか?と、
ちょっとピンとこなくて、立て札を数回再読してみた。

まあ、立派な神社に、
参道がとても細くて長いくねくね道である、
というのがとても謎なんだということか?しらんけど。

烏、というのは平安当時色々な意味があっただろうし、
先導する子飼のエージェントたちが、通ってもいたのか、、と。
素晴らしい見どころあるお祭りも当時からあったので、
人でない人(言い方)も見物に訪れたので、
そういう獣道というか、徒歩道もできあがったんかと思われる。
面白い妄想が止まらない糺の森である。
しかも、鳥多くて面白い。

ちなみに下鴨神社の七不思議は
連理の賢木
御手洗池の泡
泉川の浮き石
烏縄手
赤椿
船ヶ島・奈良社旧跡
切芝
何でも柊(これは興味がある、ガタでも見られる現象で、なんか原因がありそう)

ツッコミどころ満載ではある
そして、7つより多いが
浮石と烏縄手が同じナワテで1つとカウントするっぽい。

余談ではあるが、私の故郷ではヤタガラス(八咫烏)は熊野大神(素戔嗚尊)に仕えるミサキ神で、非常に有名ではある。個人的には天日鷲神、鴨建角身命と同一視する説も根強い上に、鴨建角身命の別名を八咫烏鴨武角身命としているので、こちら賀茂八咫烏も八咫烏ではあるんだろうとは思うが、ヤタガラスではありながら別柱っぽいというか、、。上下どちらもお話を伺ったが、由緒を考えると、金鵄(金色のトビ)のほうが近いような印象がなきにしもあらず、まあ、どっちもなんやろね。



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一の鳥居
ここから糺の森に入っていく


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禊場(みそぎば)
これは、、たしかにアレやな
ものすんごく警備がカタい



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賀茂御祖神社
崇神7年(BC90)に神社の瑞垣の修造がおこなわれたという記録があるので、創建はそれ以前。
糺の森周辺の発掘調査で縄文時代の土器や弥生時代の住居跡がたくさん発掘されたので、縄文期にはすでに呪術的に重要拠点だったと思われる。
『続日本紀』文武二年(698)には、葵祭に見物人がたくさん集まるので警備するように、という命令が出された、という記載があり、奈良時代より前にすでに崇敬あつまる、大きなお祭りが催された社であったことがわかる。

平安時代には、式年遷宮や斎王の制度などがさだめられていた特別な神社であった。
『源氏物語』や『枕草子』などによく登場することからも、知らない人がいない神社だったのは間違いない。




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どうでもええんだが、
いつから神社のお参りに
やたらと並ぶようになったんか?
長らく日本にいなかったので、その変遷が全くわからんが、
少なくとも、2000年以前は関西では並んでいなかった。
今でも、関西で地元の人は並んでないが、
観光客が並んでいるのと、
ガタや関東ではやたら並んでるのを見るので、
もしかしたら、ここ2、30年ぐらいの
観光ブームで出来上がった東スタイルなのか??
もう、日本在住も7年ほどになるが
いまだに、この変な行列には慣れないというか
変な感じが拭えない。
関東の人、並ぶの好きだから、
並ぶのもまた旅の楽しみなのだろうか?と推理している。


ともかく、神社さんでは
並ばんと、さっさとお参りしなはれ、
ということですな。
私も、崇敬する心と祈る方向が大事なんであって、
立ち位置はど真正面でもどこでもよかろうと思っている。
神社でのマナーというのは、
その心と、礼と拍(お柱によって回数の違いがある)をきちんとすることであるからして。

あ、、そういえば、
今回の旅で、お寺さんで柏手打ってる人(60代ぐらい日本人男性)も見ましたが、、
そういう人が、並ぶんかねぇ、、と
思ったりして(偏見多分にあり)



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鳥だらけです。
めちゃ営巣中
鳥見てる時間ないけど、
至福



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境内地図を見ると
すごっ!
と、感じる。
これが、京都全域と皇室を守護する要の封なんやねぇ
すばらしいエクスペリエンスですな。
私がヤタガラスを務めると、
こんな感じで”ちなみに”とかで脱線しまくり
妄想とかもふんだんに盛り込むので、
ちゃんと聞いてないと、置いてかれるというか、
情報が大変ビジーになりますな(あははは)


次はもちろん上へ

下鴨神社境内のハシブトガラス
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紫式部の墓前にて

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Boobook

毎年営巣しているそうだ。
京都中心部でも、すばらしい環境、


さて、

紫式部の没年はわからんのだが、
1014年藤原実資が資平を代理で皇太后彰子のところへ行かした時に、越後守為時女(為時の娘=紫式部)という女房が取り次ぎ役を務めたようなことが『小右記』に書いてあるので、このときには存命であるとされている。没後はこの直後で1014年の内であるというのが昔のメジャー説だったが、現在は、西本願寺本『平兼盛集』に出てくる藤式部を言及した文章を『定頼集』の逸文と推定し、1019年とする説がメジャーでもある。が、いろんな説多いのもまた、超有名作家なればこそ。

ということで、今をときめく説
西本願寺本『平兼盛集』巻末逸文をメモっておく。

”同じ宮の藤式部、親の田舎なりけるに、「いかに」など書きたりける文を、式部の君なくなりて、そのむすめ見侍りて、物思ひ侍りける頃、見て書きつ

憂きことの まさるこの世を 見じとてや 
空の雲とも 人のなりけむ

まづかうかう侍りけることを、あやしく、
かの許に侍りける式部の君の
雪つもる 年にそへても 頼むかな 
君を白根の 松にそへつつ” 

この「同じ宮」は障子のことで、そこに務める藤式部という人で親が田舎に赴任した、となると、もちろん紫式部。その娘は宣孝と式部の子、藤原賢子で、紫式部がなくなった遺筆を眺めて読んだ歌、という内容。
「憂きことの まさるこの世を 見じとてや 空の雲とも 人のなりけむ」
(つらく苦しいことのほうが多い世なんで、もうそんなん見たないわ、と、あの人(紫式部)は空の雲となってしまったんやろか、、。ってな感じ)

他にも、為時が出家(1016)したのは、紫式部の死が原因と考えて没年1016年という説。
光源氏が太上天皇になったあの場面を、敦明親王の皇太子辞退と准太上天皇の待遇授与からインスパイヤされているとして1017年にはまだ生きていたとする説。安藤為章の1025年説や、角田文衛の1031年説なんかもある。

ともかく、970’s生まれの紫式部が
生物学的に
どんなに頑張っても1070年まで生きていたと
考えるのは無理があるので、それ以前確定させる。
長生きしてて1030’s
というのが常識的であろう。
社会的に現役だったのが1010’s後半までぐらい(私説)
リタイアメントが単なる隠居か、
心身どちらかの健康上の理由か、
お亡くなりになったのかは不明のままにしておきたい
(個人的希望込)
平安時代なので、
生物学的に生命活動を中止している、というのと
世間から消えてしまっている、というのを
ほぼ同じような意味であったりもするので、
どう捉えるかは読み手次第かもしれない。
ただ、学問的にはあまた存在する”紫式部作品”が
本物なのかどうか(出来のいい悪いではなくて、本人作かどうか)
というのも
研究するにあたり、生没年はキー要素ではあるので
おろそかにはできない事ではある。

まだまだ、世に出てきてない古文書は数多なので
すんごいのが出てきたら、
いとをかし、やねぇ。



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紫式部の墓所(と伝わっているもの)は
紫野西御所、島津製作所の一角にある。
小野篁の墓と2墓ならんでいる。
小野篁は本人もいろんな方向で有名だが、
小野小町の祖父、
といえば、わからん人はおらんかと思う。
紫式部より150年ぐらい前の有名人。

各時代の源氏注釈本には、
四辻善成『河海抄』(室町時代)
”式部墓所在雲林院白毫院南 小野篁墓の西なり”
一条兼良『花鳥余情』(1472)などにも言及があるので、
小野篁の墓の横というのがまず間違いなかろうと思う。


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手前には、現代人にもわかりやすいように
名前が刻まれたものが建てられているが
その奥の自然な小規模古墳状のゆるりとしたところが
平安期の墓の様式に近いイメージである
(本当にここかどうかはともかく)
奥に据えられている五輪塔はその数十年後の様式っぽいので、
当時から、参る人が絶えなかったであろう
超有名人の墓にあやかろうとするひとも多かっただろうし
お布施なども多くよせられ
立派な五輪塔が備えられたのか、とか
考えたりして、

合掌。

この辺り、今はノーベル賞研究を輩出した
世界の島津製作所の地所であるが
この場所は紫式部存命の頃は淳和天皇の離宮があった。
紫式部が晩年に住んだと伝えられていて、後に大徳寺の別坊となった雲林院百毫院の南にあたる。
で、離宮紫野院は常康親王(仁明天皇皇子)の時に、色々ありので僧正遍照が仏寺、雲林院をつくった。
現在は紫野雲林院町と町の名前で残っているので、どれぐらいの規模だったかをなんとなく体感できるような気がする。

グルグルマップで”紫野雲林院町”とブラウズすると、
町区画がペッとでてくる。
ネト、すんごく便利と思う瞬間。



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現在の雲林院
大徳寺通に残ってございますな。

雲林院といえば、「賢木」で、六条御息所が斎宮と伊勢へ下り決別、其後、父の桐壺帝崩御、里下がりした藤壺に逢いに行くが、全く逢ってもらえんで(そりゃそうだろうて!!)、光源氏荒れ荒れになり、「そうだ、出家しよう!」と思いたち、伯父(桐壺更衣の兄・律師)がいる雲林院に篭る、というエピソードが出てくる。
これだけしか書かんかったら、藤壺命の23歳という感じだが、実は六条御息所が伊勢に行くちょい前には紫の上と結婚(今の法律では大犯罪)したてのホヤホヤ、さらに朧月夜ともやりつづけ、かなり素行がヤヴァかったころ。


六条御息所が住んでいたのは、娘が斎宮であったため、嵯峨野の野宮神社という設定だったと現在推定されている(伊勢斎宮は野宮で1年ほど潔斎する、野宮はその都度遷宮するので正確な位置は不明)。そこから当時の源氏が住んでいた二条城近くにある二条院の候補地(陽成院跡)まで、約8キロ、馬で3、40分ぐらいかなぁ。当時はかなりの遠さだと思う。が、引きも切らず貴族の殿方たちが集まって、サロンになっていた設定なので、たいがい魅力的な女性であるイメージしかない。

せっかくなのでこちらも

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櫟谷七野神社(いちいだにななのじんじゃ)
ここが賀茂斎院跡

平安から鎌倉にかけて、賀茂社に奉仕する斎内親王が身を清めて住う御所(斎院)だった。ここらへんは当時から紫野と呼ばれていたので紫野斎院、と呼ばれていた。斎院は大宮通りと廬山寺通りを東西の角にして、約150㎡ほどの敷地だったらしい。現在は櫟谷七野神社の境内に10年前に建立された立派な石碑がある。
朝顔の斎院が潔斎した場所。

ちなみに、810年には賀茂斎院制ができ、伊勢は斎宮、賀茂は斎院として区別されるようになったので、伊勢やら賀茂やらと地名が出てこなくても、”斎宮”といえば、伊勢へ。斎院となると賀茂。なので、斎宮女御(六条御息所と桐壺邸の弟で朱雀帝の前の東宮との姫君。のちの源氏の実子冷泉帝の女御となり秋好中宮に)は伊勢。源氏の恋人の一人で、朝顔の斎院(朝顔は桐壺帝の弟で桃園式部卿宮の姫君。光源氏のいとこ)は賀茂ということになる。

『枕草子』にも、賀茂祭の還立を見物するために、物見車が立ち並ぶのが書かれている。
きっと、清少納言や紫式部もこちらで見物したのだろうと想像して興奮するねぇ。

ということで、やはり斎院跡を見学したらば
賀茂祭(葵祭)の巡行をトレースしてないと、、
ということで、下鴨さん(賀茂御祖神社)へ




アオバズク
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廬山寺からはじめる京都歩き

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Ruddy turnstone
京都ではレアな京女


今回は源氏物語
紫式部をリクエストされたので
おもろいビルドができました♪
ありがたいのぅ。
ツアーの様子をちょびっとかいつまんで、書いていきます。
諸説あるなかの抜粋、という感じですんで
ガチガチに読まないようにお願いです。

そもそも平安時代の女性の生没年はよくわからんというか、
明かさないのが普通だったのもあって、
紫式部の生没年の正解はわかってはいないんですよねぇ。
が、色々な文献から、
だいたい970年代の10年の中に収まってるんでは?
というのが有力説。
藤原北家良門流の藤原為時が父で
紀貫之と親しかったので知られている藤原雅正が祖父。
祖父は伊勢とも交流があった、いわゆる一流サロン同人。
ていうか、祖父の父(曽祖父)に至っては
藤原兼輔(堤中納言/中納言兼輔)だからねぇ、
三十六歌仙よ、三十六歌仙。
歌人の家系。
とまあ、名門ではあるが、
紫式部父の為時は
政治力がいまいちだったのか、
そのほかにエグい政治モンスターがいたせいか、
そんなに出世はせずに、受領どまり
越前や越後守になった。
越後守、そうなのよガタにもいらしてるんですねぇ、為時。
残念ながら紫式部は越前には同行しているが、
越後には来ていないのだった、、。
越後に来てたんだったら、また色々ガタでも開催できただろうに。
ともかく、
越後に同行した紫式部の兄弟の惟規
(紫式部より出来が悪かったとして妙に有名)は、
越後でお亡くなりになっている。
そこらへん、これと言ってガタにてお祀りされているとか
そゆのは寡聞にして知りません。

話はずれてきたが
紫式部、970’s生まれ、
寛仁3年(1019年)には存命であったのがわかっているが
没年は不明。
そこらへん、また後日言及する。


で、紫式部が母の実家で生まれたのか
父の邸宅で生まれたのかは判明していないが、
彼女が幼少期、未婚期、さらに藤原宣孝が通っていたのも
父、為時の邸宅であったエビデンスが残っている。


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為時邸は現在の廬山寺を中心とした辺り
というので、ほぼ定説となってます。

中川(京極川の二条以北)と鴨川に挟まれた、東京極大路の北東
章明親王家と法成寺に挟まれた所で、
ほぼほぼ廬山寺がすっぽり入り、さらに梨木神社、
府立医科大学附属病院なども敷地に入り込んでいる。
この辺りが、もともと兼輔の屋敷があった場所で
後に、兼時が相続した。
まあ、なにぶん平安時代の事なので、
100%正解とは言い切れないし、
昔も今も、人は引越しをするし、
平安時代に至っては方違えが常識でもあるし。
でも、ここに居たことがある、
そう思うだけで、興奮できるわ。


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廬山寺庭園
ここで画像タイムマシン(あったらいいな)を使ったら、
紫式部が見られるかも

ともかく、
南北朝〜室町の源氏研究者(とでもいうのか)で知られる四辻善成(ペンネーム正六位上物語博士源惟良)、1362〜68年に『河海抄』(源氏物語の注釈書全20巻)を将軍足利義詮に献じているんだが、それによると、
「正親町以南、京極西頬、今東北院向也」と、書いてるのも
こちら、廬山寺が為時邸があった場所であると言われている理由。
※昔から源氏の研究書というか解説書はパブリッシュされまくってきた。『源氏釈』『原中最秘抄』『水原鈔』『紫明抄』『珊瑚秘抄』『花鳥余情』など現存してないのもあるが、もっとも古いのが平安時代の『源氏釈』で、『源氏物語』の注釈史の中で、時代によって「古注」、「新注」「旧注」とカテゴライズされている。
源氏はハマるほどに読むものが際限なくでてくるのが、えぐいところ。

ここらへん、つっこんで話はじめると
ヲタ興奮トークとなるために
くっそ長くなるので(笑)
この辺で割愛

ともかく、紫式部がここで生きてた、
と思うだけで、
クワーーーーっと奇声をあげたくなる(変態)
滾るわー


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廬山寺の向かい、梨木神社

この辺りは、『源氏物語』の中で、
貴族の別荘が多く立ち並ぶあたりに設定されている
光源氏が花散里に逢いに行く場面では、
「 何ばかりの御よそひなく、うちやつして、 御前などもなく、忍びて、 中川のほどおはし過ぐるに、ささやかなる家の、木立などよしばめるに、よく鳴る琴を、 あづまに調べて、 掻き合はせ、にぎははしく 弾きなすなり。」
という、中川の女(ワンナイトラブのモブ女性)エピソードが出てくる。
花散里もこのあたりに住んでいたという設定なので、そこらへんの近所に住んでる女性、総嘗めやな。
よく考えると、、やっぱりエグい光の君。
そして、「箒木」で光源氏が方違えで紀伊守邸に訪れる、あの人妻”空蝉”のシークエンス!あれもこの辺り、中川に屋敷がある設定。
源氏物語のリアリティは、
実際に紫式部が生きて目にした”リアル”が反映してるんよね。
たまらんわぁ。

中川、というと藤原道綱母もこの辺りに住んでいたので、
女流文学のメッカともいえる。

聖地よ、聖地(あははは)

日本、いや、世界のマスターピース

『源氏物語』の聖地巡礼の旅です。



キョウジョシギ
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二条城京都ガチャ

Posted by jube on   6 


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White-cheeked starling
世界遺産の城で住んでいる奴ら
人馴れがひどい個体も多く
特にドバト、ブト、ボソ、スズメは
すっかり観光客のおこぼれ狙いで
特に、小さい子やお年寄りの周りで
食べこぼしを狙っておりましたわ、
人間の個体識別というか、
統計的に食べこぼしやすい年齢というか
特徴を理解してるように見えますねぇ。
アイコンタクトしてくるし(笑)
特に鳩の認識能力の高さをつくづく感じた。


でまあ、昨日の二条城の補足(笑)
そして、世界遺産でも
回す私(笑)


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二条城 フィギュアコレクション
全5種

天守(洛中洛外図屏風[池田本]より再現
二の丸御殿
東南隅櫓
唐門
将軍対面の場

どれでもええが、
将軍対面の場、が一番オモロそう(笑)


この、二条城ガチャのすぐそばには
京都ガチャがあったので、
こちらも1回まわしました

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海洋堂 京都フィギュアみやげ
Season2 全8種

京野菜
向日葵雄鶏図(若冲)
舞妓
慈照寺銀閣(観音堂)
清水寺
鹿荘寺 金閣(舎利殿)
茶道具
京都タワー

これはアツい

してからに、どれが欲しいかというと、、
向日葵雄鶏図>銀閣>金閣>清水寺
かなぁ、、






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デデン!!!


唐門と清水寺!

結構良い!!!

これは、回して大正解でした!!
いいお土産〜〜



そして、久々のバーキン!!

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数年前、新潟から撤退してしまって
めちゃめちゃ悲しかった。
バーガーキング

うまい!!!

マクドナルドズも嫌いではない、
実際好きだが、
でも、バーガーキングのほうが好きなんですよねぇ。
単なる味の好み。
ちゅうことで、
できれば毎食でも良いぐらいだったんですが(笑)
なかなかチャンスがなくて1食しか食えんかった
ちょっと不完全燃焼気味


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カールの薄味は食えました!(笑)

ジャンク食でも、
東と西、かなりの違いがありますね〜
そういえば、
ウェンディーズとドムドムも長いこと食うてない
ほんま、
毎日毎食でもええですねぇ(あはは)





二条城のムクドリ
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