致道館

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Bank swallow /Sand martin
昨日はええ天気でした
ツバメの今年子たちが
それなりに飛ぶのが上手になってきて
うちの周りでめちゃとんでました
キュラキュラと賑やかだった
鶴ヶ岡城跡にやってきました
城の建物はなく、
現在、鶴岡公園

中世は大宝寺城、大梵寺城と呼ばれて、
武藤氏/大宝寺氏築城(伝)
1590年越後上杉領になり、直江兼続が城の普請を行う。
関ヶ原後、1601年山形の最上領となる。
最上義光が隠居城に決め、城下の整備と城の修繕
1603年鶴ヶ岡城と改称
1622年最上氏改易、
庄内は酒井忠勝に与えられる。
忠勝が鶴ヶ岡城を居城に定め、
最上氏までが使っていた城域を本丸に、
(天守はない)
周囲に二の丸、三の丸を配して、
輪郭式平城にした。
城内神社は稲荷。
現在、枠しかのこっていないが、
東によくある、土塁中心で石垣があんまりないタイプ。
現在の地形では、堀も浅く
土塁も低いので、バトルフォートとしては
かなりの不安がある感じ。平和な感じか。
ということで、酒井氏色一色感あり。
現在大河でも酒井忠勝が活躍されているそうで、
色々と展示物も大河ものが目についた。
まず鶴ヶ岡城を出て、
道向かいの庄内藩校へ向かう

旧 致道館
”君子学ンデ以テソノ道ヲ致ス” by論語
そういえば、「たそがれ清兵衛」でも
娘が学校で論語の素読をしてたねぇ
良いシーンです。
ともかく、
9代藩主酒井忠徳が財政再建と土風刷新のため
藩政を立て直すには人材育成が必要と
1800年に設立、

設計ブループリントは備前岡山藩の閑谷学校
1805年、祭酒(校長)に白井矢太夫就任し開校
当時幕府は朱子学を推し、各藩が従っていたが、
致道館は古学を推し、
政治学を重視した徂徠学を教えた。
萩生徂徠は江戸時代の儒学者、古文辞学者
吉宗のポリティカルアドバイザーとしても有名
というようなことが
たっぷりとわかる博物館となっている
説明パネル展示だけでなく
当時の教科書や
教科書の版木(一枚の欠損もなく完全保存されている)
教職員の任命に関する趣意書”被仰出書”
当時の学術書専門書、
藩主の持ち物なども間近でみられる。

御入間(おいりのま 奥の部屋)
藩主が御成時に入る部屋
手前は御居間(おいま)で、
天井と床下は、賊の侵入を防ぐ、
セキュリティ対策されている。
この御入間は、
戊辰戦争時に黒田清隆と酒井忠篤が面会した場所
この場所!!
米沢、仙台、山形、上山が降伏、
全国的にすでに趨勢は決し、
会津若松城陥落
1868年9月22日会津藩降伏
その直前、
庄内藩は9月16日に鶴ヶ岡城で会議を行い、
隠居の忠発(ただあき 9代藩主)が降伏を決断
新政府軍参謀黒田清隆が謝罪降伏嘆願を受け取った
3日後の9月26日に、致道館にて
黒田清隆が11代藩主忠篤(ただずみ)と面会し、
謝罪降伏を認めた。
ちなみに庄内藩に提示された条件は
鶴ヶ岡城開城と藩主忠篤と父の先先代藩主忠発の謹慎
武器弾薬没収
藩境に配置していた兵の引き上げ
という非常に寛大な処置。
戊辰の落とし所よな
博物館で、
庄内藩旗の朱の丸をみながら、
現在の日本を思った。
日の丸を見るたびに思い出す戊辰
忘れはせぬよ、
ショウドウツバメ
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